「目標至上主義」という病からの脱却:内なるエネルギーの不全を「器の大きさ」へ転換する

自己分析

ここ最近、私は身体全身を貫くような「強烈な没入できる目標がない」という、フラットな飢餓感のようなモヤモヤをずっと抱えていた。

毎朝の瞑想や筋トレを欠かさず、哲学を学び、仕事でも一定の成果を出し、家族との平穏な日常を守れている。100点満点のはずの生活のなかで、なぜか内側でエネルギーだけが空回りし、不完全燃焼の摩擦熱が生じているような感覚だった。

なぜ私は、こんなにも満たされているのに焦っていたのだろうか。その正体を深く掘り下げていくなかで、私は自分自身の極端な精神構造、そして現代の「目標至上主義」という呪縛に気づくことになった。

「暴走する怪物」と「それを閉じ込める檻」

自己分析を進めるなかで、私は自分の内側に「圧倒的なエネルギー(怪物)」と「強固な思想(檻)」が同居していることを知った。

私には、目的のためなら手段を厭わず、すべてを道具とみなしてでも突っ走れるような、冷徹で強大な支配性のポテンシャルがある。もし私に何もブレーキがなければ、おそらくその怪物のままに生きていただろう。

しかし、私はそれを許さなかった。禅やストア派、アドラー心理学といった思想を深く自分にインストールし、「善良であること」「調和を保つこと」を絶対のルールとして自らに課した。

結果として、私の脳内では凄まじい内戦が起きていた。 「どこまでも暴走できるポテンシャルを持った怪物」を、「善良でありたい思想」が完璧に抑え込んでいる状態。行き場を失った強大なエネルギーが内内で激しく衝突し、それが「目標がない」という形のモヤモヤ(摩擦熱)として現れていたのだ。

現状を打破しようと、世界を相手にするような壮大なテーマを探そうとしたこともあった。しかし、私のリアリズムが「100%確実に成功するロードマップ(階段)が引けないなら、それは現実味のない妄想だ」と、一歩を踏み出す前に自分自身を論破し、封殺してしまっていた。

2. 内田樹さんの言葉が、私の張り詰めた弦を切ってくれた

そんな、自分自身で作り上げた完璧な袋小路の中で息が詰まりそうになっていたとき、私は思想家・内田樹さんの著書『そのうちなんとかなるだろう』に出会った。

その後書きにあった言葉が、私の脳天を貫いた。

「特に計画もなく、計算もなく、意図もなく、したことにおいて、自分らしさは鮮やかな輪郭を刻む」

「人生を通じて、絶対にこれだけは実現したいとか、これだけは達成したいとかいう目標を僕は持ったことがありません。いつもなんとなくです」

この一節を読んだ瞬間、私の心を満たしたのは、圧倒的な安堵感だった。

「何か強烈な目標を持たなければならない」「このエネルギーを何かに全噴射しなければならない」と、自分自身に課し続けていた見えない合格ラインが、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。

私は目標がないことを、自分の「欠陥」や「エネルギーの不全」だと責めていた。しかし、時代を深く洞察してきた思想家が「そんなものはなくていい、なんとなく生きてきた」と、自らの人生を肯定している。無理に何者かになろうとしなくていいんだ、と張り詰めていた肩の荷がすっと下りたのだ。

3. 「望みを持たない」という、もう一つの静かなる勝利

絶対に叶えたい望みがないということは、情熱の枯渇ではない。 それは、特定の執着やエゴに囚われていない、「あらゆる変化や時代の流れをそのまま受け入れることができる、圧倒的に巨大な器」を持っているということなのだ。

世界を無理に変えるための完璧な設計図を引く必要なんてない。他者と血みどろで競い合う螺旋のトップに立つ必要もない。

世間が押し付ける「目標を持て」というゲームのルールから静かに降り、自らの哲学を持って、与えられた平穏な日常と、目の前にある最も確実な聖域(家族)を完璧に愛し、統御すること。

それこそが、私にとっての最も器の大きい人間のあり方であり、不条理な社会に対する「静かなる勝利」なのだ。私は今、この凪のような安堵感のなかで、新しく生き直している。

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