無題 第九章:自裁

無題

 神崎遼が飛び降りた翌朝、遺体は警察署の前の道路脇で発見された。

 身元の確認は容易だった。
 遺書のように見えるノートが懐に入っていたからだ。
 ただ、それは「誰かに宛てた手紙」ではなかった。

 ——それは、彼自身による“私小説”だった。

 警察署内は、重たい空気に包まれた。
 取り調べ中の被疑者が、隙を突いて命を絶った。
 管理責任が問われるのは当然だったが、誰も、直接の罪を彼に押しつけようとはしなかった。

 「……彼は、自分で結末を決めたんだろうな」

 佐々木刑事はそう呟いた。
 遼のノートの最後の一文を、何度も読み返していた。

俺の物語が小説だとするならば——
きっとこんな題になるだろう。
『自惚れ』

 それはまるで、すべてを客観視した者の筆致だった。
 彼が生涯追い求めた“愛”の正体が、その言葉に凝縮されていた。

 恵美は、遼の死の報を聞いても涙を流さなかった。
 それは悲しみではなく——ある種の“納得”に近い感情だった。

 「最後まで、彼は自分の物語を一人で書いたんだと思います」

 記者にそう答えるとき、彼女はまっすぐに前を見ていた。

 数日後、警察から遼の遺品としてノートが正式に返却された。
 恵美は、それを受け取る権利のある唯一の“関係者”だった。

 自宅の机でページをめくる。
 ひとつひとつの言葉が、あまりに生々しく、あまりに孤独だった。

 彼が殺した女性たちの名前と、そのとき感じたこと。
 彼女たちに何を見出し、何を否定し、そして何を壊していったのか。

 どの記述にも共通していたのは——他者を通じて、自分を定義しようとする渇望だった。

 最後のページに記された言葉を読んだとき、恵美はふっと息をついた。

『自惚れ』
俺は、俺自身のことを、誰よりも理解したかった。
誰かに見せるためじゃない。
ただ、自分の“好き”が、本当に“好き”だったのか、確かめたかっただけだ。

 恵美は、その一冊を封筒に入れた。
 鍵付きの引き出しの中にしまい、静かに扉を閉じた。

エピローグ:遺された音

 恵美は、ある夜、ふと立ち寄った書店で、一冊の本に目を留めた。

 タイトルは、『無題』

 表紙には何も描かれておらず、真っ白な地。
 中をめくると、物語はなかった。ただ、最後のページにだけ、こう書かれていた。

これは誰の物語でもない。
けれど、きっと誰の中にもある話。

題名をつけるならば、きっとこう呼ばれるだろう。

『自惚れ』

 恵美は、静かに目を閉じた。
 そしてその本を、そっと棚に戻した。

 彼の人生がどんなに歪んでいようとも。
 その結末だけは、誰の目にも届かぬまま、美しく完結していた。

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