深夜、警察署の屋上。
神崎遼は、面会のあと特別な許可を得て一時的に移送された仮留置施設から、職員の隙を突いて屋上へと姿を消していた。
監視カメラの死角を使い、あらかじめ計画していた。
彼が選んだ最期の舞台は、夜の静寂と風だけが支配するこの場所だった。
風が、コートの裾をはためかせる。
星は見えず、街は沈黙していた。
遼は、フェンスの前に立ち、下を見下ろした。
点滅する信号、眠りにつくビル群。
そのすべてが、自分と関係のない世界に思えた。
—
「……理沙、真帆、奈々、恵美」
声に出して、名前を呼ぶ。
返事はもちろん、ない。
それでも、彼女たちの顔が浮かんだ。
笑う理沙。叱る真帆。寝息を立てる奈々。
そして、静かに見つめる恵美。
それらすべてが、“自分”の断片だった。
彼女たちを通して、遼は「自分がどう在りたいか」だけを追っていた。
「結局……好きだったのは、俺自身だったんだな」
遼はそう呟いた。
そして、その言葉が、思いがけず自分を救うような響きを持っていたことに気づいた。
——誰かを愛していたかったわけじゃない。
——誰かに愛されたかったわけでもない。
ただ、自分の孤独を、誰かに説明できる“物語”にしたかっただけだ。
—
懐から取り出したノート。
恵美から返された、あの一冊。
最後のページに、遼は数行だけ記していた。
これは、俺という人間が“本当に在った”という証明だ。
誰かに読まれる必要はない。
ただ、俺だけが、俺を知っていた。
そして、俺は、俺を——好きだった。
—
フェンスの上に足をかける。
風が吹き上げる。
だが遼の瞳は、澄んでいた。
「これでやっと、“全部”終わる」
その瞬間、彼の身体は、風に解けるように落ちていった。
浮遊感。
風圧。
時間の感覚が曖昧になり、
遼の心に“満たされた静けさ”が広がっていく。
誰に向けるものでもない、多幸感。
言葉では言い表せない幸福。
それが彼を包んだ。
そして——落下の直前、
遼は確かに“笑って”いた。
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