無題 第七章:恵美の罠

無題

 神崎遼は、取り調べ中に突然、供述を拒否するようになった。

 最初はよく喋った。
 犯行の動機も手順も、異常なまでに詳細に語った。
 だが、三人の女性について語り終えると、最後の恵美に関する問いにだけ、口を閉ざした。

 「彼女については話さない」
 それだけを言って、視線を落とした。

 警察の中でも意見が割れた。
 「すでに彼の中で恵美は特別な存在になっている」と見る者と、
 「恵美の証言が致命傷になるから黙っているだけ」と推測する者。

 だが一人、恵美だけは確信していた。

——彼は、まだ終わっていない。
——まだ“愛の定義”を自分の手で決着させようとしている。

 「会わせてください。彼と、もう一度だけ」

 恵美がそう言ったとき、刑事たちは顔を見合わせた。

 「危険です。あなたが何を伝えようとしているかはわかる。ですが、彼は——」

 「大丈夫です」
 恵美は言った。
 「私は彼に殺されるために行くわけじゃありません。……“終わらせる”ために行くんです」

 特例として面会が許可された。
 刑務所の監視室。
 小さなテーブルの向かいに、遼は座っていた。

 恵美を見るなり、彼は目を細めた。
 その表情は、懐かしさでも後悔でもない。——“確認”の顔だった。

 「来てくれたんですね」

 「ええ」

 「あなたは、僕の物語の“最後の登場人物”なんです」

 沈黙が一拍置いた後、恵美は言った。

 「あなたは、人を愛せなかったんじゃない。——人の中に映る自分を、愛してたのよ」

 遼はわずかに笑った。

 「それが、“うぬぼれ”ってやつですか」

 「そう。あなたの人生は、自惚れの連続。
 でもそれを悪いとは言わない。人は皆、そういう側面を持ってる。
 けどあなたは——自分の“好き”を証明するために、人を殺した」

 遼は顔を上げ、恵美の目を見た。

 「だから、最後に確かめたい。……あなたは、僕の中で、唯一“好きだったかもしれない人”だから」

 恵美は、バッグから一冊のノートを取り出した。
 遼が事件前に記していた手帳だった。
 警察が押収したものを、一時的に返却されたものだ。

 「この中に書かれてるのは、あなただけの正義。でも、それは“誰にも届かない言葉”よ。
 自分のためだけに書かれた愛は、誰かと共有されない限り、“愛”にはならない」

 遼は黙った。
 そして、ノートの最後のページをめくった。
 白紙だった。

 「ここに、あなたが本当に“愛したかったもの”を書いて」

 恵美は立ち上がり、テーブルの上にボールペンを置いた。

 「それが、あなたの終わりの章よ。……あなた自身が決めなさい」

 その夜、遼は独房でノートを開いた。

 空白のページに、ゆっくりとペンを走らせる。

 文字は震え、滲み、歪んでいく。

俺の物語が小説だとするならば——
きっとこんな題になるだろう。

『自惚れ』

 その翌朝、遼は自ら命を絶った。

 彼の遺体は安らかだった。
 目を閉じ、微笑んでいるような表情。

 それは、まるでようやく“本当の自分”に出会えた者の顔だった。

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