遼が彼女を好きになったのは、高校一年の春だった。
校門の前で、風に髪をなびかせながら歩く彼女の姿を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
同じクラスになり、名前を知った。藤沢恵美。
成績は優秀で、部活は演劇。人と必要以上に距離を詰めず、けれど誰からも嫌われない。
遼は彼女に話しかけることができなかった。
日々、目で追いながら、声は出なかった。
目が合えばそらし、廊下ですれ違えば、息を止める。
それは恋とは呼べない、ただの片想いの亡霊だった。
だが、その“手に入らなかった記憶”だけが、今の遼にとって“本物の感情”として残っていた。
——俺が本当に好きだったのは、恵美だけだったんじゃないか?
理沙には“優しさ”を、真帆には“尊敬”を、奈々には“ぬくもり”を期待していた。
でも恵美には、ただ“存在”そのものに心を動かされていた。
彼女に何もしてもらっていないのに、感情が膨らんでいた。
それこそが“本当の好き”なのではないか。
その確認を、遼はどうしてもしたかった。
遼は、SNSで恵美を探した。
Facebookの苗字検索、旧友の投稿履歴、卒業アルバムの記憶。
地道に積み上げていき、ようやく辿り着いた。
彼女は都内の中規模出版社で働いていた。
プロフィール写真には、遼の知らない大人の顔が写っていた。
だが、その面影は確かに“恵美”だった。
—
ある日、遼は出版社の前で彼女を待った。
彼女がビルから出てきた瞬間、足がすくんだ。
高校のときと同じだった。声が、出なかった。
だが、恵美は遼に気づいた。目を見開き、そして微笑んだ。
「……もしかして、神崎くん? 高校、同じだったよね?」
心臓が跳ねた。名前を、覚えていた。
カフェに入って、他愛のない会話をした。
彼女は変わらず落ち着いた声で話し、たまに笑った。
話しているだけで、遼は高校時代の“届かなかった気持ち”を取り戻していくような錯覚を覚えた。
だが、その夜、帰り道で遼はふと気づいた。
——なぜ、恵美はあんなに自然に自分を迎えた?
彼女の瞳に、警戒がなさすぎた。
あまりに自然すぎた再会。それは偶然だったのか?
翌日。
恵美からメッセージが届いた。
「昨日はありがとう。話せてよかった。
それと……ごめんなさい、警察に話してあります。」
心臓が止まりそうになった。
指が震えた。視界が歪んだ。
「なんで……」
恵美は——知っていた。
理沙の失踪も、真帆の異変も、奈々の突然の音信不通も。
遼の行動が、一連の事件と関わっていることを。
彼女は最初から、会いに来たのではない。
遼を止めるために、会いに来たのだ。
—
夜、恵美からもう一通メッセージが届いた。
「あの頃、あなたが私のことを見ていたの、知ってたよ。
でも私は、その“好き”がどこか怖かった。
私はあなたに、何かをあげていない。
それでも好きだというのなら、それは——“あなた自身”を好きだったのかもしれないよ。」
文字が、胸に突き刺さった。
「恵美を好きだった」その記憶さえ、自己投影の幻想だったのかもしれない。
—
遼は、自分の手帳を開いた。
名前の最後にある「藤沢恵美」の上に、線を引こうとする。
だが——手が、動かなかった。
彼女を殺せば、「好きの正体」にたどり着けるのか?
いや、彼女を殺したら、「自分の嘘」がすべて剥がれてしまうのではないか?
何よりも恐ろしいのは、彼女だけは、本当に遼の名前を呼んでくれたということだった。
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