無題 第三章:奈々 ― 肉体のぬくもり

無題

 奈々とは、マッチングアプリで出会った。

 プロフィールには、「映画が好きです」「旅行が好きです」「お酒も大丈夫です」といったテンプレートのような自己紹介。
 けれど遼は、彼女の笑顔の写真に惹かれた。正確に言えば、その「作られた感じのない表情」に惹かれたのかもしれない。

 初めて会った夜、遼は奈々とホテルに入った。
 互いに多くを語らなかった。
 酒が入っていたせいもあるが、理由はそれだけじゃない。
 二人とも、言葉よりも身体に意味を持たせようとしていた。

 遼はその夜、胸の奥で小さな期待を抱いていた。

——これが、好き、かもしれない。

 触れた肌。重なった呼吸。
 奈々の指が遼の背を撫でるとき、まるで世界に自分しかいないような錯覚があった。

 だが、翌朝。
 奈々はあっけらかんとした笑顔で言った。

 「今日も仕事? そっかー、頑張ってね」

 そして、何事もなかったように手を振って別れた。

 それが彼女の自然体なのだと分かってはいた。
 けれど、遼は戸惑った。
 自分だけが一夜を「意味あるもの」にしようとしていたことを、思い知らされた。

 その後も何度か会った。
 セックスは軽やかで、会話は浅く、感情の深みには一切踏み込まない。

 遼は、嫉妬していた。
 奈々のその「何も期待しない強さ」に。
 何も求めずに、ただその場を楽しめることに。

 彼は奈々に惹かれていた。
 でもそれは「彼女そのもの」ではない。
 その“自由さ”に憧れていただけだった。

 ある夜、遼はいつものように奈々とホテルの一室にいた。

 「ねえ、奈々。……俺のこと、好き?」

 遼がそう訊いたとき、奈々は一瞬黙った。

 「うーん……“好き”って何だろうね? でも、一緒にいて楽だよ。悪くない」

 それは奈々なりの誠実な答えだった。
 だが遼にとっては、それが“死刑宣告”のように響いた。

 彼女は遼を“誰か”として扱っていなかった。
 あくまで「その場にいる存在」でしかなかった。
 名前ではなく、顔でもなく、ただの「ぬくもり」としてしか。

 遼は、ベッドの中で彼女の喉に手をかけた。
 奈々が目を見開いたとき、ほんの少しだけ哀しそうな表情を浮かべたように見えた。

 もしかすると——
 遼が初めて、“期待”をぶつけてきた男だったのかもしれない。

 奈々の身体が静かになったあとも、遼はしばらくその腕の中にいた。
 体温が徐々に失われていくのを、黙って感じながら。


 遼はまた一人、手帳に横線を引いた。

 理沙、真帆、奈々。
 三つの“好き”を葬ってきた。

 だが、まだ終わりではない。

 ——最後の一人。
 高校時代、何も始まらなかった、唯一の“届かなかった人”。

 恵美。

 彼女にだけは、決着をつけなければならない。
 本当に、心の底から“好きだった”と信じていたからこそ。

 だが、恵美は——
 遼が考えるよりも、ずっと“先”を見ていた。

コメント

タイトルとURLをコピーしました