無題 第二章:真帆 ― 尊敬という仮面

無題

 真帆とは、遼が社会人一年目のときに出会った。

 彼女は三つ年上で、同じ部署の先輩だった。
 化粧は控えめで、言葉に無駄がなく、周囲からの信頼も厚い。
 遼は最初から、彼女のようになりたいと思った。いや、違う。——彼女に「認められたい」と思っていた。

 だから彼は、真帆の言葉に過剰に反応した。

 「この資料、よくできてるね。助かった」
 ——その一言に、彼は一日中浮かれていた。
 「最近、ちゃんと見てるよ。成長したね」
 ——その言葉に、胸が熱くなった。

 その“高揚感”を、遼は「好き」と勘違いした。

 だが時間が経つにつれ、気づいてしまった。
 真帆の視線は、彼を通り過ぎていた。
 遼がどれだけ努力しても、それは“後輩として当然”という枠から外に出ることはなかった。

 ある日、真帆のデスクの上に置かれたスマホの画面を、遼は偶然見てしまった。
 そこには、見知らぬ男の名前と、やり取りの履歴があった。

「昨日はありがとう。また泊まりに来てね」
「うん、次はワイン持ってくね」

 鼓動が早くなり、手が震えた。
 頭の中に浮かんだのは、怒りでも悲しみでもない——「敗北感」だった。

 尊敬は、片思いの幻想だ。
 自分が追い求めていたのは、真帆という人間ではなく、「自分を認めてくれる幻想の真帆」だった。

 ある夜、退勤後にふと、真帆がビルの裏口でタバコを吸っているのを見かけた。

 「神崎くん?」

 彼女は驚いた顔をしたが、すぐに笑みを浮かべた。

 「まさか、こんなとこでバッタリするなんてね。……吸う?」

 彼女はタバコを差し出した。遼は首を横に振った。

 「真帆さんって、煙草吸うんですね」

 「まあね。意外? あんまり人前では吸わないから」

 そのとき遼は、ひとつの確信を得た。
 この人は、俺に何も見せていなかったんだ。

 尊敬なんて、所詮は自分で作った幻だった。
 その幻の中で、遼は自分を好きになっていたにすぎない。

 その夜、真帆は姿を消した。
 最後に目撃されたのは、会社近くの居酒屋を出た後だった。
 彼女の行方を知る者はいなかった。
 だが、遼は知っていた。
 彼女が、どこに眠っているのかを。

 暗い河川敷。夜の静寂に包まれた土の中に、尊敬の仮面ごと、真帆は沈んでいる。

 遼は手帳にまた一つ、名前を横線で消した。
 「理沙」「真帆」。
 あと二人だ。
 次は、奈々。

 彼女との関係は……身体から始まった。
 遼は、自分の心が何を求めていたのか、確かめなければならなかった。

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