無題 第八章:屋上の告白

無題

 深夜、警察署の屋上。

 神崎遼は、面会のあと特別な許可を得て一時的に移送された仮留置施設から、職員の隙を突いて屋上へと姿を消していた。
 監視カメラの死角を使い、あらかじめ計画していた。
 彼が選んだ最期の舞台は、夜の静寂と風だけが支配するこの場所だった。

 風が、コートの裾をはためかせる。
 星は見えず、街は沈黙していた。

 遼は、フェンスの前に立ち、下を見下ろした。
 点滅する信号、眠りにつくビル群。
 そのすべてが、自分と関係のない世界に思えた。

 「……理沙、真帆、奈々、恵美」

 声に出して、名前を呼ぶ。
 返事はもちろん、ない。
 それでも、彼女たちの顔が浮かんだ。
 笑う理沙。叱る真帆。寝息を立てる奈々。
 そして、静かに見つめる恵美。

 それらすべてが、“自分”の断片だった。
 彼女たちを通して、遼は「自分がどう在りたいか」だけを追っていた。

 「結局……好きだったのは、俺自身だったんだな」

 遼はそう呟いた。
 そして、その言葉が、思いがけず自分を救うような響きを持っていたことに気づいた。

——誰かを愛していたかったわけじゃない。
——誰かに愛されたかったわけでもない。

 ただ、自分の孤独を、誰かに説明できる“物語”にしたかっただけだ。

 懐から取り出したノート。
 恵美から返された、あの一冊。
 最後のページに、遼は数行だけ記していた。

これは、俺という人間が“本当に在った”という証明だ。
誰かに読まれる必要はない。
ただ、俺だけが、俺を知っていた。
そして、俺は、俺を——好きだった。

 フェンスの上に足をかける。
 風が吹き上げる。
 だが遼の瞳は、澄んでいた。

 「これでやっと、“全部”終わる」

 その瞬間、彼の身体は、風に解けるように落ちていった。

 浮遊感。
 風圧。
 時間の感覚が曖昧になり、
 遼の心に“満たされた静けさ”が広がっていく。

 誰に向けるものでもない、多幸感。

 言葉では言い表せない幸福。
 それが彼を包んだ。

 そして——落下の直前、
 遼は確かに“笑って”いた。

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