無題 第四章:恵美 ― 声をかけられなかった人

無題

 遼が彼女を好きになったのは、高校一年の春だった。

 校門の前で、風に髪をなびかせながら歩く彼女の姿を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
 同じクラスになり、名前を知った。藤沢恵美
 成績は優秀で、部活は演劇。人と必要以上に距離を詰めず、けれど誰からも嫌われない。

 遼は彼女に話しかけることができなかった。
 日々、目で追いながら、声は出なかった。
 目が合えばそらし、廊下ですれ違えば、息を止める。

 それは恋とは呼べない、ただの片想いの亡霊だった。
 だが、その“手に入らなかった記憶”だけが、今の遼にとって“本物の感情”として残っていた。

 ——俺が本当に好きだったのは、恵美だけだったんじゃないか?

 理沙には“優しさ”を、真帆には“尊敬”を、奈々には“ぬくもり”を期待していた。
 でも恵美には、ただ“存在”そのものに心を動かされていた。
 彼女に何もしてもらっていないのに、感情が膨らんでいた。

 それこそが“本当の好き”なのではないか。
 その確認を、遼はどうしてもしたかった。

 遼は、SNSで恵美を探した。
 Facebookの苗字検索、旧友の投稿履歴、卒業アルバムの記憶。
 地道に積み上げていき、ようやく辿り着いた。

 彼女は都内の中規模出版社で働いていた。
 プロフィール写真には、遼の知らない大人の顔が写っていた。
 だが、その面影は確かに“恵美”だった。

 ある日、遼は出版社の前で彼女を待った。
 彼女がビルから出てきた瞬間、足がすくんだ。
 高校のときと同じだった。声が、出なかった。

 だが、恵美は遼に気づいた。目を見開き、そして微笑んだ。

 「……もしかして、神崎くん? 高校、同じだったよね?」

 心臓が跳ねた。名前を、覚えていた。

 カフェに入って、他愛のない会話をした。
 彼女は変わらず落ち着いた声で話し、たまに笑った。
 話しているだけで、遼は高校時代の“届かなかった気持ち”を取り戻していくような錯覚を覚えた。

 だが、その夜、帰り道で遼はふと気づいた。

 ——なぜ、恵美はあんなに自然に自分を迎えた?

 彼女の瞳に、警戒がなさすぎた。
 あまりに自然すぎた再会。それは偶然だったのか?

 翌日。
 恵美からメッセージが届いた。

「昨日はありがとう。話せてよかった。
それと……ごめんなさい、警察に話してあります。」

 心臓が止まりそうになった。
 指が震えた。視界が歪んだ。

 「なんで……」

 恵美は——知っていた。
 理沙の失踪も、真帆の異変も、奈々の突然の音信不通も。
 遼の行動が、一連の事件と関わっていることを。

 彼女は最初から、会いに来たのではない。
 遼を止めるために、会いに来たのだ。

 夜、恵美からもう一通メッセージが届いた。

「あの頃、あなたが私のことを見ていたの、知ってたよ。
でも私は、その“好き”がどこか怖かった。
私はあなたに、何かをあげていない。
それでも好きだというのなら、それは——“あなた自身”を好きだったのかもしれないよ。」

 文字が、胸に突き刺さった。
 「恵美を好きだった」その記憶さえ、自己投影の幻想だったのかもしれない

 遼は、自分の手帳を開いた。
 名前の最後にある「藤沢恵美」の上に、線を引こうとする。
 だが——手が、動かなかった。

 彼女を殺せば、「好きの正体」にたどり着けるのか?
 いや、彼女を殺したら、「自分の嘘」がすべて剥がれてしまうのではないか?

 何よりも恐ろしいのは、彼女だけは、本当に遼の名前を呼んでくれたということだった。

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