無題 第五章:愛の定義

無題

 「俺は……愛されたいんじゃなくて、理解されたいんだと思う」

 それは、中学時代の独り言だった。
 家族の誰もが互いに干渉せず、ただ隣り合っているだけの家。
 勉強さえしていれば問題はない。逆に言えば、成績以外に価値はなかった。

 喜びも、怒りも、痛みも、誰かと分かち合った記憶がない。
 「頑張った」と言えば、「次も頑張れ」と返ってきた。
 遼が何を考え、何に傷つき、何を感じているのか、誰も聞こうとはしなかった。

 その寂しさを、彼は“普通”だと思って育った。
 けれど心のどこかでは、ずっと何かを欲していた。

 ——自分を、丸ごと、見てくれる人間。

 「俺は、ただ……誰かに、自分という存在を全部渡したかったんだ」

 ベッドの上、空になった天井を見上げながら、遼は初めてその言葉を呟いた。
 その“告白”が、遅すぎたことを理解していても。

 彼がこれまで“好きだ”と思っていた女たちは、
 それぞれの役割を担う“鏡”だった。

 理沙は「安心」の投影。
 真帆は「憧れ」の投影。
 奈々は「癒し」の投影。
 そして恵美は、「理想」の投影。

 遼は、人を好きになっていたのではない。
 自分の孤独を映してくれる“都合のいい顔”に向かって、愛していると錯覚していただけだった。

 その夜、夢を見た。
 灰色の部屋の中、無数の鏡が並んでいた。
 どの鏡にも、自分の姿が映っている。
 だが、一枚だけ——恵美の顔が映っていた。

 その恵美は、微笑んでいた。

 「ねえ、遼くん。それでも、あなたは“誰か”を愛せるの?」

 鏡を割ろうとしたが、手は動かない。
 声も出ない。
 遼はただ、映った自分を見つめていた。

 やがて、その映像は静かにひび割れていき、
 砕ける寸前、最後に聞こえたのは——

 「……あなたが好きだったのは、ずっと、“自分”だけだったんじゃない?」

 遼は目を覚ました。

 汗で濡れたシャツ。
 部屋の空気が異様に重い。
 まるで心臓が、身体の中で迷子になっているようだった。

 その日、遼のもとに警察が訪れた。
 任意同行。
 抵抗はしなかった。

 遼はもう、分かっていた。
 逃げる場所など、最初からなかったのだと。

 取調室で刑事に問われた。

 「なぜ、そんなことをした?」

 遼は言った。

 「“好き”が分からなかったんです」
 「だから、自分の“好きだった人”を、全部消せば、本物が残ると思った」

 刑事は沈黙した。
 沈黙は、答えにならなかった。
 だが、遼にとっては十分だった。

 恵美は証言を拒まなかった。
 冷静だった。感情的にもならなかった。
 ただひとつだけ、遼に手紙を書いた。

「私はあなたのことを“知っていた”わけじゃない。
でも、“理解しようとした”ことは、本当です。」

 遼はそれを、数え切れないほど読み返した。
 涙は出なかった。
 ただ、心のどこかで何かがほどけていくのを感じていた。

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