真帆とは、遼が社会人一年目のときに出会った。
彼女は三つ年上で、同じ部署の先輩だった。
化粧は控えめで、言葉に無駄がなく、周囲からの信頼も厚い。
遼は最初から、彼女のようになりたいと思った。いや、違う。——彼女に「認められたい」と思っていた。
だから彼は、真帆の言葉に過剰に反応した。
「この資料、よくできてるね。助かった」
——その一言に、彼は一日中浮かれていた。
「最近、ちゃんと見てるよ。成長したね」
——その言葉に、胸が熱くなった。
その“高揚感”を、遼は「好き」と勘違いした。
だが時間が経つにつれ、気づいてしまった。
真帆の視線は、彼を通り過ぎていた。
遼がどれだけ努力しても、それは“後輩として当然”という枠から外に出ることはなかった。
ある日、真帆のデスクの上に置かれたスマホの画面を、遼は偶然見てしまった。
そこには、見知らぬ男の名前と、やり取りの履歴があった。
「昨日はありがとう。また泊まりに来てね」
「うん、次はワイン持ってくね」
鼓動が早くなり、手が震えた。
頭の中に浮かんだのは、怒りでも悲しみでもない——「敗北感」だった。
尊敬は、片思いの幻想だ。
自分が追い求めていたのは、真帆という人間ではなく、「自分を認めてくれる幻想の真帆」だった。
ある夜、退勤後にふと、真帆がビルの裏口でタバコを吸っているのを見かけた。
「神崎くん?」
彼女は驚いた顔をしたが、すぐに笑みを浮かべた。
「まさか、こんなとこでバッタリするなんてね。……吸う?」
彼女はタバコを差し出した。遼は首を横に振った。
「真帆さんって、煙草吸うんですね」
「まあね。意外? あんまり人前では吸わないから」
そのとき遼は、ひとつの確信を得た。
この人は、俺に何も見せていなかったんだ。
尊敬なんて、所詮は自分で作った幻だった。
その幻の中で、遼は自分を好きになっていたにすぎない。
その夜、真帆は姿を消した。
最後に目撃されたのは、会社近くの居酒屋を出た後だった。
彼女の行方を知る者はいなかった。
だが、遼は知っていた。
彼女が、どこに眠っているのかを。
暗い河川敷。夜の静寂に包まれた土の中に、尊敬の仮面ごと、真帆は沈んでいる。
—
遼は手帳にまた一つ、名前を横線で消した。
「理沙」「真帆」。
あと二人だ。
次は、奈々。
彼女との関係は……身体から始まった。
遼は、自分の心が何を求めていたのか、確かめなければならなかった。
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