神崎遼が飛び降りた翌朝、遺体は警察署の前の道路脇で発見された。
身元の確認は容易だった。
遺書のように見えるノートが懐に入っていたからだ。
ただ、それは「誰かに宛てた手紙」ではなかった。
——それは、彼自身による“私小説”だった。
—
警察署内は、重たい空気に包まれた。
取り調べ中の被疑者が、隙を突いて命を絶った。
管理責任が問われるのは当然だったが、誰も、直接の罪を彼に押しつけようとはしなかった。
「……彼は、自分で結末を決めたんだろうな」
佐々木刑事はそう呟いた。
遼のノートの最後の一文を、何度も読み返していた。
俺の物語が小説だとするならば——
きっとこんな題になるだろう。
『自惚れ』
それはまるで、すべてを客観視した者の筆致だった。
彼が生涯追い求めた“愛”の正体が、その言葉に凝縮されていた。
—
恵美は、遼の死の報を聞いても涙を流さなかった。
それは悲しみではなく——ある種の“納得”に近い感情だった。
「最後まで、彼は自分の物語を一人で書いたんだと思います」
記者にそう答えるとき、彼女はまっすぐに前を見ていた。
—
数日後、警察から遼の遺品としてノートが正式に返却された。
恵美は、それを受け取る権利のある唯一の“関係者”だった。
自宅の机でページをめくる。
ひとつひとつの言葉が、あまりに生々しく、あまりに孤独だった。
彼が殺した女性たちの名前と、そのとき感じたこと。
彼女たちに何を見出し、何を否定し、そして何を壊していったのか。
どの記述にも共通していたのは——他者を通じて、自分を定義しようとする渇望だった。
—
最後のページに記された言葉を読んだとき、恵美はふっと息をついた。
『自惚れ』
俺は、俺自身のことを、誰よりも理解したかった。
誰かに見せるためじゃない。
ただ、自分の“好き”が、本当に“好き”だったのか、確かめたかっただけだ。
—
恵美は、その一冊を封筒に入れた。
鍵付きの引き出しの中にしまい、静かに扉を閉じた。
—
エピローグ:遺された音
恵美は、ある夜、ふと立ち寄った書店で、一冊の本に目を留めた。
タイトルは、『無題』。
表紙には何も描かれておらず、真っ白な地。
中をめくると、物語はなかった。ただ、最後のページにだけ、こう書かれていた。
これは誰の物語でもない。
けれど、きっと誰の中にもある話。題名をつけるならば、きっとこう呼ばれるだろう。
『自惚れ』
恵美は、静かに目を閉じた。
そしてその本を、そっと棚に戻した。
彼の人生がどんなに歪んでいようとも。
その結末だけは、誰の目にも届かぬまま、美しく完結していた。
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