理沙とは、大学二年の春に出会った。
彼女は、笑うのが上手い人だった。
相手が冗談を言えばきちんと笑い、ちょっとした沈黙にも微笑みを差し込む。まるで会話の潤滑油のような存在。遼はその「優しさ」に惹かれた。いや、そう思い込んでいた。
思えば、最初から違和感はあった。
彼女はいつも他人の空気を読むことに必死で、誰に対しても平等に笑っていた。
自分だけが特別な存在ではない。だが、それでも彼女は遼に優しかった。
夜中、ふと送ったLINEにも即座に返事が返ってきた。試験前には手書きのノートをくれた。病気の時にはおかゆを作って部屋に来てくれた。
でも、——それが「愛」だと、どうして言い切れる?
遼は、今になってその問いに答えられない自分に気づいていた。
彼女の好意は、誰にでも向けられていたのではないか。
その「優しさ」は、人を傷つけないように設計された、ただの処世術ではなかったか。
「ねえ、どうしたの? 最近、顔が暗いよ?」
理沙は言った。
あの頃と変わらぬ柔らかな声で。
彼女の部屋。淡いラベンダーの香り。カーテンが揺れて、薄曇りの空がのぞいていた。
遼は、その瞬間、確信した。
——この人は、俺を“好き”だったわけじゃない。
誰かを傷つけないために優しくして、結局は誰の心にも入ってこない。
俺は、その“偽善”を「愛」だと錯覚していたんだ。
「理沙、さ」
遼は静かに言った。
「俺たち、さ。……付き合ってたんだっけ?」
理沙はきょとんとした表情を見せた後、困ったように微笑んだ。
「何それ。今さら? 変なこと言うね」
その微笑みが、決定打だった。
理沙の“優しさ”は、遼にとって刃だった。
彼女の無差別な温もりに、自分は勝手に“特別”を夢見た。
だがその夢は、最初から、彼女の側にはなかった。
その夜、遼は理沙の部屋に戻った。合鍵は返していなかった。
部屋の電気は消えていて、理沙はベッドで眠っていた。
静かだった。
包丁を握った手は、驚くほど冷静だった。
眠る彼女の横顔を見て、ふと、思った。
——たぶん、この人、死ぬ瞬間まで優しいんだろうな。
「ごめんね」
その言葉が、無意識に口から出た。
優しさの罪を、今、裁く。
薄く響いた刃の音と、小さな吐息。
血がシーツを染め、ラベンダーの香りに鉄の匂いが混ざった。
遼はしばらくの間、理沙の死体の横に座っていた。
感情は……なかった。
ただ、空っぽだった。
これが「好き」だったのか?
あるいは、これが「好きじゃなかった証明」なのか?
わからない。
でも、次は真帆だと、心はすでに動き始めていた。
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