無題 第一章:理沙 ― 優しさは罪か

無題

 理沙とは、大学二年の春に出会った。

 彼女は、笑うのが上手い人だった。
 相手が冗談を言えばきちんと笑い、ちょっとした沈黙にも微笑みを差し込む。まるで会話の潤滑油のような存在。遼はその「優しさ」に惹かれた。いや、そう思い込んでいた。

 思えば、最初から違和感はあった。
 彼女はいつも他人の空気を読むことに必死で、誰に対しても平等に笑っていた。
 自分だけが特別な存在ではない。だが、それでも彼女は遼に優しかった。
 夜中、ふと送ったLINEにも即座に返事が返ってきた。試験前には手書きのノートをくれた。病気の時にはおかゆを作って部屋に来てくれた。

 でも、——それが「愛」だと、どうして言い切れる?

 遼は、今になってその問いに答えられない自分に気づいていた。
 彼女の好意は、誰にでも向けられていたのではないか。
 その「優しさ」は、人を傷つけないように設計された、ただの処世術ではなかったか。

 「ねえ、どうしたの? 最近、顔が暗いよ?」

 理沙は言った。
 あの頃と変わらぬ柔らかな声で。
 彼女の部屋。淡いラベンダーの香り。カーテンが揺れて、薄曇りの空がのぞいていた。

 遼は、その瞬間、確信した。
 ——この人は、俺を“好き”だったわけじゃない。
 誰かを傷つけないために優しくして、結局は誰の心にも入ってこない。
 俺は、その“偽善”を「愛」だと錯覚していたんだ。

 「理沙、さ」

 遼は静かに言った。

 「俺たち、さ。……付き合ってたんだっけ?」

 理沙はきょとんとした表情を見せた後、困ったように微笑んだ。

 「何それ。今さら? 変なこと言うね」

 その微笑みが、決定打だった。
 理沙の“優しさ”は、遼にとって刃だった。
 彼女の無差別な温もりに、自分は勝手に“特別”を夢見た。
 だがその夢は、最初から、彼女の側にはなかった。

 その夜、遼は理沙の部屋に戻った。合鍵は返していなかった。
 部屋の電気は消えていて、理沙はベッドで眠っていた。

 静かだった。

 包丁を握った手は、驚くほど冷静だった。
 眠る彼女の横顔を見て、ふと、思った。

 ——たぶん、この人、死ぬ瞬間まで優しいんだろうな。

 「ごめんね」

 その言葉が、無意識に口から出た。
 優しさの罪を、今、裁く。

 薄く響いた刃の音と、小さな吐息。
 血がシーツを染め、ラベンダーの香りに鉄の匂いが混ざった。

 遼はしばらくの間、理沙の死体の横に座っていた。
 感情は……なかった。
 ただ、空っぽだった。

 これが「好き」だったのか?
 あるいは、これが「好きじゃなかった証明」なのか?

 わからない。
 でも、次は真帆だと、心はすでに動き始めていた。

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